こんにちは、きぼうです。
今回は「私が教員を辞めたわけ」の続き、第3回です。
前回までの記事はこちら。
それではどうぞ☕
自由すぎる困ったちゃんたち
前回も書いたように、私が担任をしていたのは、小学校の特別支援学級(情緒学級)の5人の子どもたち。
中でも入学したての1年生の二人は、
集団生活が極端に苦手で、すぐに教室を飛び出してしまう。
ふざけて奇声をあげる、物を投げる、ロッカーの上に登る…まるで嵐のような毎日でした。
2年生1人と3年生2人も、その流れに引きずられて騒ぎ出したり喧嘩を始めたり…。
当然、交流学級への参加も難しく、教室内はいつも大混乱。
教室に人が多すぎることもあって、一人が騒げば全体がすぐに影響を受けてしまう状況。
「このままじゃ何もできない…」と、管理職も交えて教室の人数を減らす方法を相談しました。
そして、私は1年生2人を中心に担当することに。他の3人は空き教室に移動し、
教科担任の先生に見てもらうことになりました。
教室を分けたのは、確か6月頃だったと思います。
小さな前進と、届かないフォロー
それからの私は、1年生たちとの関係づくりに全力で取り組みました。
興味をひきそうな教材を準備し、まずは「座って授業を受けること」からスタート。
「この先生といると、なんか楽しいかも」って思ってもらえるように、あの手この手でアプローチ。
その甲斐あって、少しずつ教室にいられる時間が増え、話も聞けるようになり…。
やがて2人は“ひらがなブーム”に突入。
一緒に授業らしいことができる時間が少しずつ増えていきました。
それは確かに、大きなやりがいでした。
でも、私が手をかけられるのは、1年生だけで精一杯。
教科担任にお願いした3人のうち、
3年生は人数が減ったことで何とか授業が成り立つようになりましたが、
2年生の「困った君」は相変わらず。
時間通りに教室に来ない、来てもすぐに飛び出す、
隠れてトイレにトイレットペーパーを投げ込む、平気で嘘をつく。
上級生に「死ね」と暴言を吐く、叩く、蹴る…。
トラブルが絶えませんでした。
今思えば、きっと彼はとても寂しかったのだと思います。
「居場所がない」って、そんな気持ちだったのかも。
始めのころ、1年生の復習を一緒にしたときに、嬉しそうな顔をしたこともあったっけ。
彼のペースに合わせて、少しずつ進めていってあげたかった。
突然「困ったちゃんたち」を任された教科担任の先生も、本当に大変だったと思います。
「担任じゃないのに…」という戸惑いと苦労がにじみ出ていて、
私のフォローがもっと必要だったのですが、
その頃の私はキャパオーバーで、どうにもならなかった。
学級担任、としてしっかり背負って見てくれる先生がいたら、
教室みたいに広くなくていい、小さくていいから専用の部屋があったら。
でも当時のあの状況では、どうすることもできなかった。
心も体も、休まらない日々
子どもたちといる時間も、放課後も、気が休まることはありませんでした。
次々に降ってくる仕事。終わりが見えない日々。管理職からの叱責。
交流学級の先生とうまく連携がとれないことも多く、
急に予定を変更されて支援級の子たちが混乱して荒れるたびに、心が折れそうでした。
通常学級の先生たちも、自分のクラスで精一杯で、こちらに目を向ける余裕はなかったんですよね。
これまで過ごしていた支援学校とは全く時間の流れ方も、子どもとの日々の過ごし方も、
仕事内容も違い過ぎて、いつもいつも混乱している日々。
気がつけば、毎日21時を過ぎての退勤。
土日も、どちらかは出勤して仕事。
そんな生活が続く中で、だんだんと体調もおかしくなっていきました。
行きたくない。朝が来るのが怖い。
ずっとそんな気持ちを抱えて、
だんだんと給食が食べられない日が出てきていました。
今日はここまで。
今回も読んでくださってありがとうございました。
またいらしてくださいね。
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